明日、春が来たら


朝または昼に起きてから深夜あるいは早朝に眠るまで、ここ数日の間僕は大雑把に表現するところの“死”を感じていたから、何もしないままに日が沈み「あぁ、今日もまた」などという感傷も気づけば好き放題に希釈されていて、毎日夜になればロボットのように埃と皮脂と精液の臭いのする自室に戻っては「今からでもどこかへ出かけたい」など考えながら嫌々眠るだけの日常だったから、これを変えなければいけないと思っていた。



小説みたいに書こうとしたけど向いてないのでやめます。






映画『コラテラル』の劇中にこんなセリフがある。



“いつかは夢がかなうって?ある日ふと気付くのさ。夢は叶わないままいつの間にか歳をとった自分に。自分が何もやろうとしなかったからだ。夢は記憶の彼方に押しやり、肘掛椅子に揺られ一日中ぼんやりとテレビを見て過ごす。自分を殺しているも同然だろう。”



この映画を借りてきて観た当時、観るタイミングがバッチリ合ってしまったため僕はこのセリフを言うヴィンセント(トム・クルーズ)に画面越しに本当に説教をされているかのような気持ちになって、ヴィンセントがその日の夢にまで出てきたほどだった。正確ではないにしろこのセリフは今でも覚えていて、時々思い出しては今もヴィンセントにお叱りを受けている。僕も“やる人間”でいなければいけないんだ。



でも現実の僕はどうだろう。
ヴィンセントに説教されたあの時から一体何が変わったんだ?おい!!言ってみろ!!!!!答えろよ!!!!!!!!!!お前は何も変わってないじゃないか!!!!!夢は記憶の彼方に押しやり、肘掛椅子に揺られ一日中ぼんやりとテレビを見て過ごしているだけじゃねえか!!!!!毎日毎日来る日も来る日も自殺しやがって!!!!!





部屋の掃除をしろ!!!!!!!!





ということで始めた部屋の掃除。これが今から3日前の出来事である。


平山夢明さんが小説を書けなくなってしまっていた時期に精神科医が薬の処方よりもまずはこれを、と勧めたという「部屋の掃除」。これにより平山夢明さんは見事スランプを脱し今に至るという。
ならば僕も試してみる価値があるのではと思い、始めることにしたのだ。


本当は布団を干してタオルケットやカバー等を洗濯するだけの予定だったんだけど、このエピソードを思い出したのと、ベッドの脇に文字通り積まれたDVDやゲームや本を片付け始めたら夢中になってきて止まらなくなったのでええいやってしまえと日本昔ばなしのOPよろしく掃除機にまたがり部屋中を飛び回ったのである。



するとどうだろう。
気分は晴れやかで達成感があり、なにより活力が湧いてきた。
目の前の面倒くさいことを一つ片付けてしまうだけでこれほどまでに心持ちが変わるものかと当たり前のことに感動した。
僕は何を今まで毎日ごちゃごちゃごちゃごちゃ御託を並べ、気付けばいつもの堂々巡り、解決策など勿論見えず、今日も今日とて日が暮れる、なんてことをやっていたのかとさっきまでの自分が馬鹿馬鹿しくなった。



掃除が終わり、ホコリよけに着けていたマスクとプレイリスト「workout」を大音量で流しているイヤホンを外すと、僕の脳は一気に開けていた窓から入ってきた春の匂いと部屋に広がる静寂とでいっぱいになり、脳が蕩け、次の瞬間卒倒した。









松たか子「明日、春が来たら」
http://youtu.be/oUDQ04sSkeU



晴れやかな気分そのままに次の日僕は近所にある城跡の公園(山)へ散歩に行った。昨日に引き続き今日も暖かくなるらしいから。背中には色んな本を詰めたバックパックを背負って、手には缶コーラを持ち、今日もプレイリスト「workout」を再生し意気揚々と公園へ向かった。途中、山道めいたところも歩いた。


公園に着いてまだ咲いていない桜の木が立ち並んでいる芝の広場を少し歩いてからホームレスの居着きそうな場所でしばらくの間本を読んだ。読み始めたのとほぼ同時に、暖かかったはずなのに急に曇りだし少し風も吹いてきた。
「えぇ~……」って言った。
でもこういうのが去年光が丘公園に行っていた頃と本当に似ていてとても懐かしくなった。
本は何冊も持っていったけど結局2冊しか読まなかった。


少し風が強くなってきて寒かったので歩こうと思って気づいたんだけど俺のいるところ日陰じゃねえか、なんでこんな暖かい日にわざわざ日陰なんだ、馬鹿か俺は、しかも歩き始めてすぐわかったけど他のところは全然風なんて吹いてないしひなただからむしろ暖かいぞ。あまり俺をなめるなよ。



歩いていると謎のシェルターを見つけた



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施工管理者らしき二人組がシェルターの前まできて悪い顔をして口元を手で隠しこちらをチラチラと警戒しながら何やら怪しいやり取りをしていたがこれは一体……


しかも僕が写真を撮ってすぐにそれまでどこにもいなかった小学生3人組が突如現れ、遊んでいる素振りを見せつつ明らかにこちらを監視していた。“奴ら”が送り込んだエージェントであることは火を見るより明らかで、もはや疑いようのない事実である。あのシェルターは一体……謎は深まるばかりである。




そんなこと(あとは芝をつついているスズメに小石を本気で投げていたら家族連れに見られていた)があって、そろそろ帰ろうとしたときのことであった。

桜はまだ咲いていないものの、春を感じていたので、僕はなんの気なしに春の定番曲、松たか子の『明日、春が来たら』を再生したながら歩きだした。
春の風に乗ってやってきたような淡いイントロ、最高だ。詞が始まれば松たか子の抜群の歌唱力とトラックが互いに引き立て合って尚のこと良い。明るくて爽やかでノスタルジックでそれでいてどこかうわついたようにふわふわしていてまさに春そのものといった文句なしのナンバーである。


しかし何かがおかしい。
なぜか怖いのだ。
なぜかはわからないが急に怖くなってきてしまったのである。
僕は聴くうちにどんどん怖くなってきてついにはドゥン!ドゥン!となるダンスミュージックに変えてしまった。

なんだこの曲は。
絶望が一周してメーターを振り切ってしまったかのような「妙な清々しさ」が曲中ずっと見え隠れしている。
聴いているうちに松たか子の、あるいは曲中の主人公のもんどり打つ激情の真ん中に放り込まれ閉じ込められたかのような気持ちになり、目眩がし、誰かに見られている感覚に陥った。最低だ。
歌詞も改めて見てみると何かおかしい。表向きは球児に恋をしたっぽい(両想いか?)女の子の話として物語が進み、それが過去のことであったような語り口で歌われているが、どうも普通の淡く甘酸っぱい青春の恋物語と割りきって理解できるようなものではなく、完全に過去として歌われてはおらず、全体としてどこか落ち着いた狂気を感じる。そうするとこの曲で印象的な歌詞の一つである「永遠の前の日」という部分の奇妙さにも拍車がかかる。そうしてこの曲はフェードアウトで終わる。そんな曲など腐るほどあるはずなのにこの曲のフェードアウトはそれらとはまた意味が違って聞こえる。つまり「まだ終わっていない」という狂気に満ちたメッセージに聞こえるのだ。本当に怖い。(しかも一度これについてブログを昨日書いたら突然消えた。下書きにもなく自動バックアップもとれていなかった。怖い。この曲はどこまでも僕を追い詰める。)


僕では上手く言葉に出来ないので、この曲を聴いて同じような怖さを感じた誰かに是非とも言葉にして感想を聞かせてほしい。



結局家に着くまで怖さを紛らわすためドゥンドゥンクラブミュージックを聴きながら、クラブの複雑なライティングの中ボンボン大学生などを最高のアクションでボコボコにする自分を想像しながら歩いた。帰ってから筋トレもした。来るなら来いよ。




これからやってくる春の暖かい日にみんなにもぜひ松たか子の『明日、春が来たら』を聴きながら部屋の掃除や散歩をしてみてほしい。誰かが後ろからあなたを見ている。